すすきの通信&Refine スタッフブログ

くまきち

菅家の歴史


菅さんの家で岡本さんのラーメンを

いただきました!



このラーメンをつくったのは、いったい菅さんなのか、

岡本さんなのか?? 気になるところですね~、

これには菅家の歴史ある愛と悲しみの物語がありました。

※閲覧注意 ↓



紀元前770年、王騎将軍が天才軍師・李牧の策略で殺され、都を移してから、分裂を繰り返した紀元前403年まで、大王自らの悪政により不満を募らせた諸侯に背かれた前771年に殺されると、翌年に息子は武将らの力を借りて再興する―これが物語の始まりである。政を攻める国の隙をつき、積年の恨みを抱く趙軍が侵攻してきた。急報に防衛軍を編成する政、率いるは最後の六将王騎。信の率いる百人隊は緒戦で王騎の特命を受け、趙将馮忌を討つ。飛信隊の名をもらった信は、将軍への道を垣間見た。蒙武軍の覚醒もあって敵軍師・趙荘の采配を悉く上回る王騎であったが、総大将の三大天・龐煖との決着をつけるべく、罠を承知で本陣を進める。龐煖とは、妻になるはずだった六将・摎を討たれていた王騎にとって因縁深き間柄だった。本軍同士が激突し、総大将同士が一騎打ちを戦う最高潮の中、突如秦軍の背後に未知の新手が姿を見せる。率いるのはもう一人の三大天・李牧であった。一転して死地に追い込まれた秦軍、一瞬の隙を突かれて王騎も致命傷を負う。信に背負われ激戦の末脱出に成功した王騎は、信に自らの鉾を託し、蒙武ほか将兵に多くのものを残して逝った。東遷に大きく貢献し信はこの後、権勢を振るったが大きすぎる功績により政から、かえって疎んじられた。信の代で、王による討伐を受けるも、撃退に成功した。この時に追撃するべきとの家臣の言葉に「天子に対してそのようなことは良くない」と答えた。王の大幅な権威失墜を表す一方、それでも諸侯は周王への敬意を未だ抱いていたことも表している。ただ、国威も荘公以降はあまり振るわなくなる。王室の家柄であったが、その統治所領は狭く、国力自体は中の下という程度であったためである。代わって覇権を握るのが東方の大国・木内である。建国の大功臣・太公望を始祖とする木内は薄野未開地帯を大きく広げ、国力を充実させていた。15代目政海(せいかい・60歳)の死後に後継争いで国内が混乱するが、内乱を収めた宰相・宮路の活躍により、大きく飛躍する。当時、南方で周辺小国を呑み込んでいた新興国・宮路が大きく勢力を伸ばし、さらに中原の小国への侵攻の気配を見せていた。本来頼るべきは小さくなった王室の中でなお権力争いを続けている有様であり、木内の威圧に怯えた小国は仕方なく服従していた。しかし宮路が登場し、木内に対抗したことでこれら国は宮路に助けを求めるようになった。宮路と対決した政海は、薄野において木内に対する無礼を咎め、田山の侵攻を抑えた。これにより諸侯間の盟主と成った政海公爵は、紀元前651年に丘(現在の河南省藺考)において会盟を開き、王に代わって諸侯の間の取り決めを行った。この業績により宮路は覇者と呼ばれ、五覇の第一に数えられる。先の戦功により正式に千人隊に昇格した飛信隊であったが戦術の要であった羌瘣が去り、連戦連敗を重ねていた。隊解散の危機に陥るが、立派な軍師に成長した河了貂の加入により救われる。他方、秦の山陽奪取により生まれた新たな情勢に対し、李牧はある決意を固め動き出す。合従軍侵攻―函谷関攻防戦南の大国・楚に侵攻されただけでなく、同時に北や東からも攻め寄せて来た敵の大軍勢によって、大小様々な城塞を易々と失陥するという凶報が秦の国都・咸陽へ続々ともたらされた。秦の本営に立て直す間も与えぬ破壊力を示し、かつ進撃を止めぬ侵攻軍。これこそ、李牧が画策し、発動させた多国籍連合「合従軍」であった。たった一国で他国全部を迎え撃つために、秦国の本営はそれまでの防衛線を一切放棄し、国門・函谷関での集中防衛に国運を賭けた。北門の函谷関では秦軍諸将の奮戦もあって最大の窮地を凌ぎきったものの、南門の武関から咸陽に至る道沿いの城が次々と陥落するという不測の事態が発生する。李牧が自ら別働軍を率い、国都咸陽を陥落させるべく電撃戦を開始したのであった。この動きを察知した麃公や飛信隊の猛追が間に合うものの、龐煖との一騎打ちの末に麃公を討たれてしまい、飛信隊も敗走を余儀なくされる。この頃、呂不韋が不穏な画策をするなど内外から危機の迫る咸陽を、国を守る最後の拠点・蕞を防衛すべく、政は自ら出陣する。しかし管仲の死後、人が変わったように堕落した桓公により国政は乱れ、さらに桓公死後の後継争いで斉は一気に覇権の座から転落した。これに代わって覇者になろうとしたのが宋の襄公である。殷の遺民たちの国で、国力は中程度という宋だったが、襄公は桓公の後を継いで天下を治めんという高い志を抱いていた。まず斉の後継争いに介入、元より太子とされて宋に預けられていた昭を位に就けて孝公とした。さらに諸侯の盟主となるべく盂(河南省睢)にて会盟を開いた。しかし、この会盟で宋に主導権を握られることを嫌っていた、参加国の楚の重臣に監禁されてしまった。襄公はいったん帰国して楚と決戦に及ぶ(泓水の戦い)が、敵に情けをかけた結果(宋襄の仁)大敗し、覇権の獲得は成らなかった。桓公に続く第二の覇者となるのが北の大国・晋の文公である。晋は武公・献公の2代に亘って周辺諸国を併合して大きく伸張したが、献公の愛妾・驪姫が起こした騒動により、文公たち公子は国外へ逃亡した。文公は異国にあること10数年に亘り、苦労の果てに隣国・秦の助力を借りて晋公の座に就いた。君主に就いた文公は後に周王室の内紛を収め、楚との城濮の戦いで大勝し、践土(河南省温県)に周の襄王を招き、会盟を開いて諸侯の盟主となった。文公は桓公と並んで五覇の代表であり、文と称される。公と前後して活躍したのが、西の大国・秦の穆公である。穆公は西の戎と戦って勝利し、百里奚などの他国出身者を積極的に起用し、小国を併合して領土を広げた。また驪姫の乱で混乱した晋に恵公を擁立し、後に恵公が背信を繰り返すとこれを韓の地で大破し、その死後、今度は恵公の兄を即位させ晋の文公とした。秦の穆公と晋の文公の関係は良好であったが、文公の死後に再び両国の関係は悪化し、穆公はまたもや晋を大いに破っている。だが穆公死去後、家臣のほとんどが殉死したため秦は大きく後退した。次に覇権を握るのが、南の大国・みやーん王である。もともと周から封建された国ではなく、実力により湖北・湖南を押さえて立国した経緯の為、王として認知されていなかった。のちに子爵の位を周より授かったが、国力に対して位が低すぎるとして自ら王を名乗るようになったのである。荘王は今まで朝廷にはびこっていた悪臣たちを一挙に排除し、有能な人材を登用した。国内を治めた荘王は豊富な兵力をもって北上して周辺の小国を威服させ、洛陽近くで大閲兵式を行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た軍を大破した。この勝利により中原の小国は服従した。こういった背景から国同士の対立をあまり望まれなくなり、紀元前546年に兵の会が行われた。兵とは戦いを止めるということである。貴族たちの伸張はそれまであまり国政の座に就くことのなかった出自の者たちを国政の舞台に押し上げ、この時期には名宰相と呼ばれる者が多く出る。代表的なものに斉の晏嬰・鄭の子産・晋の羊舌肸(叔向)などがいる。また大国同士が直接ぶつかりあうことが避けられたため、鄭の子産や魯の孔子などの活躍する小国外交が活発になった。子産は中国初の成文法を制定したことで有名である。この子産の行動についても、法律はそれまで上流階級の中で暗黙の了解で行われていたが、新しく勃興してきた層階級の人間たちにはそれが不満であったので、法律を形に残るようにしなければいけなくなったと考えられる。この頃になると君主は貴族たちの顔色を窺わなければ立ち行かなくなり、晋では先述の六卿から2つが脱落した知・魏・韓・趙の4氏に完全に牛耳られ、斉ではかつて陳より亡命してきた田氏の力が非常に大きくなり、楚では有力貴族と王族との争いで国政は混乱した。後期・呉越抗争。一方、南の長江流域では2つの新興勢力が興っていた。呉は闔閭・夫差の2人の君主と名臣孫武・伍子胥、越は君主勾践と名臣范蠡の力により急速に勢力を拡大した。呉は楚の首都を陥落させ、滅亡寸前に追い込むほどの力を見せる。さらに越を撃破して服属させ、黄河流域に進出して諸侯の盟主の座を晋と争った。しかし、一旦屈服した越の入念な準備に基づいた反撃により、呉は滅亡する。越も勾践の死後は振るわず、後に楚に滅ぼされた。完全な異民族が中原の覇者となったことで周王朝を中心とする秩序が無意味化したこと、呉越は製鉄の先駆地でこの頃から本格的に鉄器時代に入ること等から、呉越抗争の直後から戦国時代とする説もある。その頃、晋では紀元前453年に知氏が魏・韓・趙の3氏の連合により滅ぼされる。知氏の旧領を分け取りにしたことでさらに力をつけた3氏はそれぞれ魏・韓・趙の国を建てた。この3つを合わせて三晋とも呼ぶ。その後、魏・韓・趙の三国は紀元前403年に周王室より正式に諸侯として認められた。この時点をもって春秋時代は終わり、戦国時代に入る。前後して、斉ではほぼ完全に田氏に国政を牛耳られ、紀元前386年に田和により簒奪され、太公望以来の斉は滅びた。これ以降の斉をそれまでと区別して田斉とも呼ぶ。この記事の信頼性は薄く、「宗法」に基づく軍制が基本で、一軍を12,500人として、大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍と定められており、これを大きく抜き出ることはなかった。三軍を有したのは晋・楚・斉ぐらいのもので、しかも斉の場合は一軍は1万人の兵を指している。六軍を有してよいのは周王だけだが、周は春秋時代から急速に衰え六軍は形成できなかった。晋では文公の時、新たに三軍を加え六軍としたがほどなく廃止されている。軍が巨大化しなかったのは、王を形式上尊ぶことから「宗法」を遵守したこと、この頃まだ鉄は使われておらず武器の質が低かったこと、鉄製農具がなく生産性が低いため人口も次の戦国時代よりかなり少なく、長期間の戦争は著しく国力を減退させることなどが挙げられる。この頃の主な戦争は兵車戦であり、騎馬はほぼ存在しなかった。この頃の中華思想は、車(馬車・兵車)という高等な乗り物を使用するのが中華圏の人であり、馬に直に騎乗するのは狄戎(異民族)と変わりがないと思われていた。大夫は兵車に乗り戦争指揮をし、兵車を核として歩兵を配置した。また、まだこの時代は戦を前にして占いをする風習も残っており、古風であるといえる。見られない戦争形式が、この時は見受けられる。つまり、野天での開戦時に一方の使者が相手陣地に乗り込み、戯言を言う・武勇を示すといったことをする。相手方がこの戯言に戯言で返答する、または武勇を示した相手を追いかけ出したら戦争開始となった。これは、この時代中期まではしっかりと見られ、奇襲は非礼とされていた。それに、この時代特有の光景も見られる。晋の大夫・郤至が敵国である楚の共王を発見した。郤至は共王を見ると兵車を降り、冑を脱ぎ、走り去った。共王は好感を抱き郤至に弓を贈らせたが、受け取らず自分の無事を告げて粛という礼を3回した。また、晋の君主厲公の車右である欒鍼は、敵軍の子重の旗を見つけると、晋軍の勇を見せるため厲公に頼み込み酒樽を送ってもらった。という風に「礼」を重んじた戦が展開されたのがこの時代なのである。戦国時代からは、この光景は見られず戦における「礼」は消失した。秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された。これに対し反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、穆公は虞の大夫であった百里奚や宋の蹇叔らを登用し、孝公は衛の王族だった商鞅から、恵文王は魏出身の張儀から、昭襄王は魏の范雎からそれぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説の荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた。秦は「法」を重視する政策を用いていた。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分。秦は強大な軍事力を誇り、先代・荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた。韓非が死んだ3年後の秦王政17年(前230年)、韓は陽翟が陥落して王が捕縛されて滅んだ。次の標的になった趙には、王の臣・郭開への買収工作がすでに完了していた。斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害につけこまれた秦の侵攻にも讒言で李牧・司馬尚を解任させてしまい、簡単に敗れた。(秦趙の戦い(中国語版))趙の王は捕らえられたが、公子は代郡(河北省)に逃れたが、王は捕虜となり国は秦に併合された。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。燕は弱小な国であった、同国の太子・丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いはかつての趙が政へ向けた態度同様に礼に欠いたという書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は帰国を許したという。逃げる秦王政(海)と襲いかかる荊軻。中央上に伏せる者は秦舞陽。両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻めたが、武力では太刀打ちできなかった。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という人物に白羽の矢を立てた。地図の箱を手にした秦舞陽が差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り倒した。二人のいつわりの使者は処刑された。秦王政海は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた。暗殺未遂の翌年には首都・薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された。その後の戦いも秦軍は圧倒し続け、遼東に逃れた燕王は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた。次に秦の標的となった魏は、かつて五ヵ国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相・后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ。中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰・馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は周の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。秦王政海は号のみ自ら変え、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した。また秦王政は、王の行いを評して死後贈られる謚の制度を、臣下が君主をあげつらうものとして廃止した。そして自らを「始皇帝」とし、次代から「二世」「三世」と数えるように定めた。なお、この始皇帝は死後の称号として指示したもので、在位中は「皇帝」または「今皇帝」と呼称された。諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。咸陽城には滅ぼした国から鐘鼓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった。名称「阿房」の由来には諸説あり、「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも、四阿旁広の様子からつけられたとも、始皇帝に最も寵愛された妾の名とも言われる。後漢朝は創立当初から地方豪族の力が強く、経済力を持った彼らは中央政府に一族を官僚として送り込み、また皇帝の后に一族の娘を送り込むことで外戚となり、大きな勢力を誇った。しかし159年に外戚の梁冀が宦官の力を借りた桓帝に誅殺された後は、宦官が中央を牛耳るようになり、そのことに豪族たちは強い不満を抱いていた。宦官は本来生殖能力を喪失した男性であるが、養子をとることにより世襲貴族となることを志向する者も現れ(魏の祖となった曹操の祖父である曹騰はその一例である)、豪族層の反感をかきたてた。豪族たちは宦官勢力を濁流と呼び、自分たちを清流と呼んで宦官たちを非難した。これに対して宦官たちは党錮の禁(禁錮、当時の用語で公職停止を意味する)と呼ばれる弾圧を行った。一方では悪政が続く中で民衆の生活は窮迫し、これらの民衆は張角が教祖として率いる太平道(道教の源流の一つとされる宗教団体)に救いを求めるようになった。多くの民衆を吸収した太平道は、184年についに反乱を起こす(黄巾の乱)。宦官はこの乱の発生に困惑する。宦官たちには軍の指揮は出来ないので、どうしても豪族たちを起用する必要がある。朝廷は霊帝の皇后何氏の兄である何進を大将軍とし、党錮の禁を解いて皇甫嵩・朱儁らを将軍に任じて鎮圧に当たらせた。官軍の奮戦により黄巾軍を何度か撃破し、途中で張角が病死したこともあり、同年のうちに鎮圧に成功した。しかし鎮圧後も中央政府の悪政は変わらず、民衆の不満も豪族たちの不満も解消されないままであり、各地に黄巾の残党が散らばったことで反乱は続いていた。この頃、西の雍州・涼州で韓遂・辺章・王国らが羌族や氐族とともに後漢に反逆し、後漢の張温・皇甫嵩・董卓らと激しい戦いを繰り広げた。霊帝の時代、劉焉は地方の支配力が弱くなっていることを理由に刺史の代わりに州牧を置くことを提案した。また、劉焉も益州牧となった。その中、189年、皇帝の霊帝が崩御する。その後継を巡って何皇后が生んだ劉弁と、霊帝の母の董太后に養育された劉協の間で後継争いが起こるが、何皇后側が勝利し、劉弁が皇帝に即位した(少帝弁)。後継争いに勝利したことで宦官勢力を押さえ込んだ何進は、名門の出身である袁紹に唆されて宦官誅滅を図るが、逆に宦官に殺される。これを見た袁紹たちは宮中に入り込んで宦官を虐殺し始めた。この混乱の中で少帝弁と陳留王(劉協)は宮廷の外へと連れ出され、何進の呼びかけに応えて洛陽へやってきていた西涼の董卓により保護される。朝廷の実権を手中にした董卓は洛陽に暴政を布き、少帝を廃して陳留王を皇帝につけた。190年、これに反対する刺史・太守などの軍閥たちは各地で反董卓の軍を挙げて、連合して董卓を攻めた(反董卓連合軍)。連合軍と董卓軍は何度か激突するが、董卓は洛陽に火をかけて焦土とした上で、西の長安へと引き揚げ、長安に都を移した。袁術の部将の孫堅が洛陽を制圧したが、もともと利害の不一致から戦意に乏しかった連合軍はこれをきっかけに崩壊し、軍閥たちはそれぞれの兵士を引き連れて根拠地へと引き返していった。この時点での後の三国の創始者たちの動向だが、魏の創始者である曹操は連合軍には参加しており、自前の兵力は少なかったが、鮑信と手を組んで、董卓軍に果敢に挑んだが、大敗した。蜀漢の創始者である劉備は連合軍の中の公孫瓚の配下の一武将に過ぎなかった。呉の創始者である孫権の父親の孫堅は陽人の戦いで董卓軍を破り、董卓の武将である華雄を討ち取り、洛陽を制圧するなど、目立つ活躍を見せた。袁紹は董卓により擁立された長安の献帝に対抗すべく、幽州の劉虞の擁立を計画したが、袁術はこれに強く反対している。劉虞自身も皇帝になるのを拒否している。この頃、中国北部では韓馥から冀州を譲り受けた袁紹と幽州に割拠する公孫瓚が対立し、中国中部では豫州と荊州南陽郡で袁紹の従兄弟である袁術とその配下になっていた孫堅が勢力を広げていた。中国南部では荊州で劉表が、益州では劉焉が勢力を拡大していた。袁術の配下の孫堅は豫州刺史であったが、191年、袁紹は周昂(又は周昕)を豫州刺史として派遣したので、孫堅と孫堅の主である袁術は周昻(又は周昕)と豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹が対立することとなり、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。袁紹と同盟したのが曹操・劉表・周喁など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・陶謙などである。河南から山東までの地域を統一する。一方、袁紹も公孫瓚を滅ぼして、河北・山西を領有し、曹操と袁紹とがにらみ合う状態となった。 両雄は200年の黄河南岸の白馬・官渡などで激突する(官渡の戦い)。序盤は曹操が袁紹の部将の顔良・文醜を討ち取り、優位に立つ。しかし、曹操軍本体と袁紹軍本体の戦いで、兵力に勝る袁紹軍が勝利し、曹操は官渡の砦に篭城した。袁紹は豫州の諸郡に対し、味方になるよう誘いをかけ、曹操軍の後方に劉備らを派遣し、荒らし回らせると、曹操は本拠地の豫州の支配の維持さえ困難となり、窮地に陥った。しかし、袁紹軍から投降してきた許攸の計略を用いて、曹操が袁紹の兵糧庫を奇襲してこれを焼き払ったことをきっかけに、曹操の大勝利に終わり、中原での覇権を確固たるものとした。202年、袁紹が病死すると、曹操はしばらくは袁紹の息子の袁譚・袁尚らを滅ぼすことに費やし、黒山賊の張燕を降伏させ、袁氏に味方した袁紹の甥の高幹や烏桓(烏丸)族を攻め下し、袁紹の旧勢力を吸収した曹操は圧倒的な大勢力となり、南下に乗り出す。曹操は南征を開始した。まず劉表の後を継いだ劉琮の降伏を受け入れて荊州を併呑した。これにより劉表の元に身を寄せていた劉備は南へ逃れることとなり、荊州で出会った諸葛亮の献策によって孫策の後を継いだ孫権と同盟して曹操を迎え撃つ体勢を整えた。曹操軍と孫権・劉備連合軍は長江中流の沿岸の赤壁にて激突し、孫権配下の周瑜や黄蓋らの活躍により、曹操軍を破った。この戦いで曹操軍は飢えと疫病で多くの兵士が亡くなった。戦後、劉備は劉表の長子の劉琦を上表して荊州刺史に擁立、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合し、徐州を追い出されて以来、初めて確固たる基盤を得た。敗れた曹操は北へ引き返して、以後は南征を控えて華北の経営と軍事力の回復を中心に行うことになる。孫権は劉備とともに南郡を攻め取り、南郡を獲得した。その後、程なくして劉琦が死去したために劉備自ら荊州牧となった。その後、劉備は京城で孫権と会見し、赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話し合った結果、劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることとし、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。孫権は交州刺史の歩騭を派遣して、交州の実質的な支配者である士燮を服属させた。この頃、曹操は長江周辺を孫権に奪われるのを恐れて、長江周辺の住民を北方に移住させようとした。だが、強制移住を嫌がった長江周辺の十数万人の住民が、長江を渡って江東に移住した。多くの民族が住み、豪族たちが割拠していたが、韓遂と馬騰・馬超親子が彼らの盟主であった。曹操の部下の鍾繇・張既は韓遂・馬騰・馬超を後漢と曹操に服属させた。しかし、211年、韓遂・馬超ら豪族連合は曹操に対して反逆し、東征し、潼関まで進出したが、曹操に大敗した。その後、曹操軍の夏侯淵らが韓遂・馬超ら雍州・涼州の豪族の勢力を壊滅させ、雍州・涼州を平定した。これで曹操は河北・中原地域を完全に領有することとなった。董昭の発案により、曹操は魏公となり、曹操は魏王となった。劉備は張松・法正・龐統の謀略を用いて、劉焉の子の益州刺史の劉璋を攻め降し(入蜀)、荊州に加えて益州も領有し、ここで三国鼎立の形が定まった。劉備が益州を奪取した後、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求したが、劉備は涼州を手に入れてから荊州の全領地を返還するとして履行をさらに延期した。そこで業を煮やした孫権は怒り、長沙・桂陽・零陵を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪ってしまった。そこで、劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになったが、和解し、劉備は長沙・桂陽を孫権に割譲し、同盟友好関係が回復した。対する劉備としては、曹操軍による漢中制圧は非常な重大事であり、この地を抑えられるとこの方面から北上することはほぼ不可能になる。そこで219年に劉備は自ら出兵して、これに従軍した黄忠や趙雲の奮闘もあり、守将の夏侯淵を討ち漢中を奪った(定軍山の戦い)。この地を獲った劉備は漢中王を名乗る。この称号はかつて劉邦が漢中(南鄭)の地で漢王を名乗ったことに倣ったものと思われる。守備していたのは関羽で、その頃の関羽は荊州北部の曹操領に対して猛烈な攻撃をかけ、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、樊城・襄陽を包囲した(樊城の戦い)。一時は曹操すらうろたえて遷都を考えたほどであった。そこで曹操は、孫権に長江南部の領有を認める条件で孫権と同盟を結び、孫権に劉備を攻撃させた。そして、関羽の隙を突いた孫権の部下の呂蒙・陸遜の策にはまり、関羽は孫権に捕らえられて処刑され、南郡・武陵・零陵は孫権の領有するところとなった。この戦いの結果、劉備たちと対立することが確定的となったために孫権は曹操に対して形式的ではあるが、臣従した(孫権は部下の提言もあり、一時は劉備との対立をそらすため、関羽の首を曹操の元へ送ることで打倒曹操を掲げる計画を立てたが、逆に劉備の怒りを増大させることになり対立は深まった)。皇帝となった劉備だが、長年の部下である関羽と魏攻略の足がかりとなる荊州を失った怒りは激しく、孫権に対する復讐戦を企図し、反対する者を遠ざけて出兵に踏み切った。蜀漢軍は最初のうちは連戦連勝であったが、呉の陸遜の策にはまり、大敗(夷陵の戦い)、劉備は退却し白帝城で病死した。その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が丞相として蜀漢の内外政を一手に引き受けることになる。蜀漢に大勝した呉は、長江南部の地域に確固とした基盤を築いたことから、魏に対して従属的な姿勢をとる必然性も無くなり、元号を黄武と定め、独立色を明確にした。更に劉備亡き後の蜀と同盟し、再び魏に対抗するようになった。魏の文帝は内政面に意を砕き、新しく九品官人法を施行した。この法は南北朝時代末期まで適用されることとなる。また、222年に魏は3方向から呉を攻め、呉を苦しめたが、疫病が流行したため退却した。文帝は226年に40歳で死去、曹叡(明帝)が後を継いだ。蜀漢の諸葛亮は魏に対する北伐作戦を最終目標とし、そのための足場固めのために225年には南征を行い、蜀漢に反逆した雍闓・高定の反乱を鎮圧した。2年後の227年に諸葛亮は出師の表を奉り、北伐を決行した。この戦いは7年間・5度に及び、諸葛亮は魏の曹真・張郃・司馬懿・郭淮らと戦い、武都・陰平の2郡を獲得し、張郃を討ち取った。234年の最後の北伐の最中、陣中で諸葛亮は病に倒れ没した。その後の蜀漢は一旦は消極的な政策をとり、大規模な軍事侵攻作戦を実行しなかったが、姜維が軍権を握ると北伐を繰り返し国力を消耗した。228年、呉の周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。呉の陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い、大勝した。呉では孫権が皇帝を名乗り、一時代に一人だけの名目だった皇帝が同時に三人並ぶことになった。230年に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したという記録があり(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった)、これは台湾(夷州)と沖縄諸島(亶州)ではないかと考えられているが、日本ではないかとも考えられている。この頃、呉の呂岱は交州に出兵して、この地の独立勢力の士氏一族を滅ぼして、この地を呉の直轄とし、南海交易の利益を占めた。234年から3年間、呉の諸葛恪・陳表・顧承らは揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士を6万人徴兵した。235年、魏の幽州刺史の王雄の命令を受けた韓龍は、鮮卑族の軻比能を暗殺した。呉軍を撃退し諸葛亮の北伐を防いだ魏の司馬懿は、その軍功と権力から周囲に警戒されるようになる。この時期に遼東には公孫氏勢力が独立していたが、呉と結んで魏に対抗するようなそぶりを見せたために魏の中央は司馬懿に対して討伐を命じ、238年、これを滅ぼした。その翌年の239年、倭の卑弥呼の特使が魏に訪れた(魏志倭人伝)。また、魏は遼東を完全に支配下に置くことで東の高句麗と国境を接するようになり、のちの244年には武将・毌丘倹が高句麗首都を陥落させている。239年、曹叡は早世し、養子の曹芳が魏の皇帝となった。曹叡は死去するに際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託したが、後に司馬懿は曹爽とその取り巻きに権力を奪われ、閑職へと追いやられた。これに対して司馬懿は249年に息子の司馬師らと共にクーデターを起こして曹爽一派を殺害し、権力を掌握した。完全に魏を牛耳った司馬懿だが、旧主の曹操に倣って帝位の簒奪は行わないまま251年に死去した。その後の権力は司馬師に受け継がれ、司馬師が死ぬと司馬昭に受け継がれる。この間、255年の毌丘倹の乱(毌丘倹の乱)や257年の諸葛誕の反乱(諸葛誕の乱)などの司馬氏支配の魏中央政府への反乱が何度か起きるが、司馬氏に対する有効な打撃力とはなり得ず、鎮圧されていった。諸葛誕の反乱は、魏軍26万と諸葛誕・呉軍20万が1年にわたり激突した大戦であった。呉では、孫権が皇太子の孫和と孫和の弟の孫覇の両人をほぼ同等に処遇したため、立太子を期待する孫覇派と廃太子を防ごうとする孫和派の対立を招いた。孫権が決断を欠いたため、対立は泥沼化し、吾粲が処刑され、陸遜が流罪となり憤死するなど、国力を衰退させた。この問題は、250年、孫和が廃太子され、七男の孫亮を皇太子に立てることで決着した。孫覇は自害を命じられ、多くの孫和派と孫覇派の人物が誅殺されたり、追放された。252年に孫権の死後を狙って侵攻してきた魏の胡遵・諸葛誕に大勝して声望を得るが、翌年の魏への侵攻は失敗に終わり、疫病で多くの兵士が亡くなった。これで落ちた声望を回復するために国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺され、孫峻が丞相となり呉の政権を握った。自分の権勢のためだけに独裁政治を行った。256年に孫峻が病死すると、孫峻の従弟の孫綝が権力を握り、孫峻同様の独裁政治を行った。257年、魏で諸葛誕の反乱が起きると、諸葛誕と手を結んで魏を攻めるが、失敗に終わった。孫綝の影響力が低下したことを見た孫亮は孫綝の排除を図るが、逆に孫綝により廃位され、孫権の六男の孫休が代わりに擁立され皇帝となった。55年に姜維が魏を攻めて魏の雍州刺史の王経に大勝したが、256年の段谷の戦いで大敗し、蜀漢の国力を疲弊させた。258年以降、蜀漢では宦官の黄皓が政治を乱し、皇帝の劉禅は遊び呆けていた。蜀漢を滅ぼす機会と見た司馬昭は鍾会・鄧艾らを派遣して、270年、鮮卑の禿髪樹機能らが西晋に反乱を起こし、西晋の秦州刺史・胡烈や涼州刺史・牽弘を討ち取った。禿髪樹機能の反乱は羌族ら他の民族も参加する大規模なものだったが、277年、西晋の司馬駿・文鴦が禿髪樹機能を降伏させた。279年、禿髪樹機能は再び西晋に反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の馬隆に滅ぼされた。統一後の武帝はまったく堕落し、女色に耽って政治を省みず、上級官僚の間では現実の政治を無視した清談が流行した。さらに武帝は、地方分権を図り一族を地方の王として任命し、大きな権力を与えたため、死後には後継者恵帝が無能な為に后一族らと司馬一族による権力争い(八王の乱)が起こった。この乱で国力を消耗した晋は劉淵による漢(前趙)の建国とその侵攻によって晋は統一から30年で崩壊(永嘉の乱)し、再び中国は分裂状態に逆戻りすることとなった。戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、次第に任峻らの尽力などにより軌道に乗った。官渡の戦いの時点では曹操軍は兵糧の確保に難航している。屯田制により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。魏の初代皇帝の曹丕も冀州の兵士5万戸を河南郡に移した。降伏させた民族を中国の内地に住まわせ、兵士を軍隊に加入させた。軍の騎兵はその名を大いに轟かせた。勢力圏の境界付近に住む住民を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにする為である。時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。郷挙里選の科目の一つの孝廉には儒教知識人が主に推挙されたが、勢力の幹部に推挙されている。自身も推挙されている。多くの名士が集まり、やがて名士は武将を抑えて政権内で大きな権力を持った。皇帝は、九品官人法という官吏登用法を始めた。九品官人法では官僚の役職を最高一品官から最低九品官までの9等の官品に分類する。また、郡の中正官が官僚候補を評価して、一品から九品までの郷品に分類する。この郷品を元に官僚への推薦が行われ、新人官僚は最初は郷品の四品下の役職に就く。例えば郷品が二品ならば六品官が官僚としての出発点となる。その後、順調に出世していけば最終的には郷品と同じ官品まで出世し、それ以上の官品へは通常は上れない。実権を握ると中正官の上に、郡よりも広い地域を管轄する州大中正を導入した。魏から司馬氏の西晋へ移行したころから、郷品は本人の才能より親の郷品が大きく影響するようになり、郷品の世襲が始まり、貴族層が形成されるようになった。後漢における宦官の弊害を教訓とし、宦官が一定以上の官職に就けないようにした。また、外戚や皇帝の親族の弊害も考慮し皇后の政治参加を禁止するなどして一族に大権を持たせることをほとんどしなかったが、その結果権力に対抗できる者が居なくなり滅亡の一因となった。
―最後になりますが、山崎豊子さんのご冥福をお祈りしつつ、ありったけの小銭で麺を奢っていただいた、いつもの写真家さんに感謝いたします。



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